単発考察〜ゲームの楽しさを考える〜


情報工学科 辻

(1)ゲームの楽しさ〜勝敗の存在〜
 人は必ずなにかのゲームを一度はしたことがあるでしょう。(トランプなど)ゲーム―娯楽―は人をひきつけるものがあります。 そうでなければたぶん誰もやらないでしょう。人と人が一緒に行うゲームには必ず他人との明確な勝ち負けの概念があります、 例としてトランプでは手札がなくなったらあがり、強い手を作った人が一番、多くの札を取った人が勝ち等。 その他のゲーム―ボードゲームや将棋も勝ち負けがついてゲームは終わります。ゲームの楽しさは勝敗が出るまでの勝ちを つかむための過程―どうやってゲームをすすめるか考える、人との駆け引き―が面白いのです。 この楽しさはスポーツや他の娯楽にも存在しています。人対人の関係が絡むものには勝敗という明確な終わりがつきものです。 そして勝敗が楽しさのスパイスとして働いているのでしょう。

(2)コンピューターという媒体 〜ゲームの新たな表現手段〜
 さて、こんどはテレビゲームの話です。今日、多くのゲームが世に出ています。知っての通りこれらは一人でするものから二人以上でのするものなど遊ぶ人数でも様々です。 この中の一人でするゲームは少し特殊なものです。なぜなら勝敗の概念がないものが存在していないようなものがあるからです。 現実には一人用のゲームと呼べるものとしてパズルの類―ジグソーパズル、ソリティア、クロスワードがあるにはあります。これらのゲームもパズルを解くことその間の試行錯誤がゲームの楽しみとなっています。 コンピュータゲームだってこのようなシステムを楽しみとするパズルゲームはたくさんあり、他人と対戦したりコンピューターが相手したりで実際はは勝敗の概念があります。 またアクションゲーム、シューティングゲームは動きが加わったパズルともとれます。しかしこれらは単純に勝ち負けがある、考えることが楽しさ、といえなくなっています。 その別の楽しさにはコンピュータゲームをする上でコントローラーの操作が必要になってきたということがひとつあげられます。これはタイミングや瞬間的な反応や複雑な操作を行うということをゲームの要素に生み出しました。 これらはゲームの楽しさの要素を増やし、さらにコンピューターがその要素を一人で楽しむ土台を作ってくれました。これらを楽しむものは考えたり、試行錯誤を行うのですが、 その最後が明確でないもの―例えば、落ちものゲームならば自分が手詰まりになるまでつづいたり、シューティングは最初のステージにループして何週できるかを挑戦してみたり等―は永遠に続くけることが(理論上は)可能です、 そして終わり方は人それぞれで勝ち負けの基準が異なります。これらを他人との勝負に使うこともありますが、大体は自分の限界への挑戦する楽しみとなります。 そして数多くの変化がおきています。例としてゲームはきれいな画像や動画、音楽などを用いた映画のような物語を主軸に置いたエンターテイメントに近くなっている気もします。 この場合ゲームを遊ぶ側はゲームを進めること=物語を進行させることが楽しみとなりそれによって楽しみ方も変わってきました。さらには雰囲気を楽しむゲームというものも増えてきました。 このように今のゲームは楽しみ方が多様化してきています。

(3)さいごに
 これらの変化を可能にしたのは技術の発展により家庭にパソコンやゲーム機というものが一般的に存在していることが要因です。さらにそれらが高度な処理の発展―2Dからポリゴンの3Dへ、 静止画像から動画、リアルな効果音や音楽―をして視覚、聴覚からも楽しめるものが作れることになりました。今のゲームはそれを最大限に使ったものが多いです。 またインターネットを利用した多人数で行われるオンラインゲームも数多く登場し、一般的になってきています。それはコンピューターの技術の発展をゲームが一生懸命吸収しているような感じを私は受けます。 たぶん実際にそうなのでしょう、ただしこれはゲームだけでなく他のエンターテイメント、日常生活の部分にも当てはまることなのですが・・・。 とにかくいえることは、ゲームは単純な勝ち負けの存在で楽しさを作るだけではなくなってきているということです。私みたいな単純な人間には難しい世の中となっているのです(少し大げさですが)。 ちなみに私は新しいものより古くからあるようなタイプのゲームが好きな人間の一人です、トランプや花札やモノポリーをやりだすと止まらないタイプです。3Dゲームの視点変化で酔いそうになる人間です。 そんな人間がこんなことを述べるのはただの世迷言かもしれません。けれどこれからのゲームの発展は気になるところです。 それよりもゲーム製作をしっかりやらなければいけませんが・・・。 (終)