ゲームについて考えたこと        4J  和田

 

 今回はゲームを作るうえで参考になりそうもない抽象的なことを思いつくままに脈絡もなくつらつらと書き連ねてみたいと思います。面白いゲームを作るにはどうしたらよいか自分なりに考えたつもりですが、そこから面白いゲームのアイデアは出てきませんでした。こんなことばかり考えていてもゲームは創れないんだよという反面教師として役立ててください。

 

運の要素には2種類ある?

 たとえば、ある戦術シミュレーションゲームでは「30%の確率でその日の天候は雨天となる」「雨が降ると射撃武器の命中率が下がる」というルールがあったとする。雨が降るかどうかは運で決まるが、プレイヤーは雨が降ったか否か知った上で出撃部隊を編成できるなら、射撃より白兵戦を重視した編成で出撃するほうが有利だと判断できる。一方、ある攻撃の命中率が80%であるとする。20%の確率で攻撃が外れてしまうが、その場合プレイヤーは別の手を考えることはできても、どうがんばっても攻撃が命中した場合より良い結果にはならない(特殊なルールや条件でない限り)。これら2つの例から、運の要素には対処可能なものとそうでないものがあることがわかる。一口に「運の要素」と言っても前者は場の条件を変化させてゲームに幅を持たせようという意図で採用されているのに対し、後者はプレイヤーの能力に依存しない判定は確率と運で判定するしかないという理由で採用されているのである。ゲームに運の要素をどのくらい入れるべきかを考えるときはこの2つを区別しなければならない。「あまり運の要素が大きすぎるとプレイヤーが思考する意味がなくなってしまう」というのは一般論だが、それは後者の対処不能な運に対してであり、前者の対処可能な運に関してはこの限りでない。

 

運の要素の影響

 ゲームの結果が運の要素で決定されることを毛嫌いする人もいるが、そういう人はどうやってゲームをデザインしたらよいだろう。アクション的なゲームならともかく、戦術シミュレーションゲームなどでは運に頼った判定ができなければ採用できるルールがかなり狭くなり、「攻撃は必ず命中する」など、場合によっては不自然なルールも受け入れなければならない。それよりは運の要素が勝敗に与える影響をなるべく小さくすることを考えたほうが良いように思う。しかし、運による判定の回数を減らせばよいというわけではない。勝敗が決まるような重要な判定を運で決めてしまったら、それが一回の判定であっても運任せのゲームということになる。正解はむしろ逆で、判定の回数が多ければ多いほど1回の判定が全体に与える影響が小さくなり、また確率から全体の結果を予想しやすくなる。運任せが嫌なら、たくさん運任せをしよう。

 

成長要素

 キャラクターが戦うたびに成長して強くなるゲームは多い。もはや成長要素はRPGの代名詞になっているが、なぜ成長要素があるのか考えずに受け入れるのはやはり良くないと思う。

 第一に、各プレイヤーに対してゲームバランスがある程度適切に調整されるからである。要領の良いプレイヤーはキャラクターが弱いままでも進むことができ、より強い敵と戦うことができる。要領の悪いプレイヤーでもキャラクターが強くなればその分楽にゲームを進めることができる。これにより、ある程度はプレイヤーの力量に合った難易度になる(ただし元からゲームバランスが悪いとゲームは作業的になる。あくまでプレイヤーの個人差を埋めるための機能だと考えたい)。そして誰でもゲームがクリアできる。RPGはゲーム的な勝敗要素以外にもシナリオや、場合によってはムービーなどの芸術作品的要素が大きな「売り」になっていることもあるので、その場合はプレイヤーの力量が不足しているせいで最後までクリアできなければプレイヤーは不満を抱くことになる。

 第二に、場に変化を与えるためである。弱いキャラクターで弱い敵と戦うのも強いキャラクターで強い敵と戦うのも難易度はそれほど変わらない場合もあるが、取れる戦術が変われば別の思考が要求されるのでプレイヤーを飽きさせずにすむ。しかし場合によっては、戦術に変化が無く本質的には同じことを繰り返しているだけであっても、プレイヤーがそう感じなければ楽しめるので、外見上の変化を与えることだけを目的とする場合もある。

 戦いを重ねればキャラクターが強くなるのは当然であるから成長要素はリアリティを出すためのものだという意見があれば、筆者はそれに反対である。戦いの経験を積めば槍で刺されても死ななくなったり、扱う銃の威力が上がったりするものもあるが、それがリアルであるとは思えない。

 

待ち戦術

 攻めと守りを次のように定義する。攻めとは、自分が勝利条件を満たすための手である。守りとは、自分が敗北条件を満たさないための手である。もちろん攻守一体の手もよくある。ここで、守りが攻めよりもリスクが低い、または有利なルールだったらどうだろう。お互い自分から不利な攻めを選択することは普通しないから、守りに入る。しかしお互い守っているだけではどちらも勝利条件を満たせないので、時間制限などがなければ勝敗はつかないことになる。しかたなくどちらかが自分から不利な攻めを選択せざるを得ないが、それはゲームを終わらせるための、いわば「譲歩」である。相手に譲歩を期待し、相手に譲歩されることで勝とうとするのがいわゆる「待ち戦術」である。将棋には「千日手」というルールがあり、囲碁には「劫」というルールがある。これらは、どちらかが譲歩(あえて不利な選択をする)しなければ勝敗がつかないような手はどちらが譲歩せねばならないかをルールで定めている。これに習うなら、相手の譲歩によって勝とうとする戦術はできるだけ成立しないようなゲームデザインが好ましいし、格闘ゲームなどには待ち戦術防止策と思われるルールがよく見られる。

アクション的要素の無い戦術シミュレーションなどをデザインするなら、必ず攻めを有利にしなければ勝負はつかない。特にターン制の戦術シミュレーションでは自分から敵に近づくほうが不利になる場合が多いので、攻めには必ずそれを上回るメリットが与えられなければならない。よくあるのが都市などを制圧しないと収入が増えないというもので、それにより都市を攻める必要性が生ずるようになっている。

 

逆転要素

 逆転要素とは、不利な状況に追い込まれていても勝てるようなルールのことである。もし逆転要素がまったく無い場合、ゲームの勝敗は中盤でほぼ決定されてしまい、終盤をプレイする必要は無くなる。ゲームの展開がドラマ性に欠けるが、勝てないことがわかったら相手に勝ちをすぐに譲れるようにしておけば、これはこれで悪くはない。将棋にも投了できるというルールがある。それに対し、逆転要素が強すぎる場合、序盤の手がほとんど無意味になってしまう。また、運の要素で逆転を起こす場合、その確率が高すぎるとほとんど運次第で勝負が決まってしまう。これらを考慮すると、「中盤で有利なほうが大体勝つが、低い確率で逆転が起こる」くらいのバランスにしておけば最初から最後までお互いが楽しめる。

 

ゲームの複雑さ

 ゲームの複雑さとはプレイヤーが要求される思考の複雑さであり、複雑なゲームほど奥が深い。ゲームのルールが複雑だからといって、プレイヤーに要求される思考も複雑であるとは限らない。複雑なルールを理解するだけで勝てる方法が分かってしまうようなら、プレイヤーに思考の余地は無い。複雑なゲームとはルールが複雑なゲームのことではなく、単純なルールでも複雑なゲームになり得る。ゲームを複雑化するには、位置関係の概念を重視するとよいと思う。位置関係のないゲームは、複雑にしようと思ったらプレイヤーにたくさんの選択肢やコマンドを与えねばならず、しかもそれらのバランスが取れていないと(一部のコマンドが強力すぎたりすると)ほとんどの選択肢が存在意義を失うことになる。位置関係の概念があれば、キャラクターをどこに配置するか、どこに移動するかというだけでも膨大な選択肢をプレイヤーに与えることができる。またさらに、何かその場に残るようなものが設置できるようにして、設置されたものが後々まで場に影響を与えるようにすれば、長期的な戦略を立てる必要性が生ずるのでさらに複雑な思考が要求される。それでなお余裕があれば、時間の概念をどう管理するかなどに凝ってみてもよいかもしれない。

 

ゲームを作る動機

つぎの4つに分類できると思う

1・ゲームを作るのが楽しい

2・今あるゲームに不満

3・ゲームが好き

4・お金や名誉が欲しい

3番の人は、ゲームはお金さえ出せば遊べる(ダダで遊べるものもたくさん出回っている)のだから、わざわざ自分で作る必要は無いと思う。4番の人はゲーム作りにこだわる必要はないだろう。お金を稼ぐならもっと確実な方法があるし、名誉が欲しければもっと人の役に立つ仕事をすればいい。問題は2番の人である。誰かが面白いゲームを作ってくれるのを待つほうが楽なのだが、それで望みのものが手に入るとは思えないので自分で作るという人だ。しかしその人は今あるどのゲームよりも面白いゲームを考えなくては作る意味が無いということになるので、非常に難しい。よほどの才能がなければ、筆者のようにゲームのアイデアを考えては「ここがダメだ」と言って捨て、また考えては「今度はこっちがダメだ」と言って捨てるということを繰り返す羽目になる。極端な理想主義は不毛なのである。

やっぱり変にこだわらずに肩の力を抜いてゲーム作りを楽しむのが一番だろう。そうでなければ作り始めることすらできない。もっと早く気がつけばよかったのに。